Zuddha Yoga 200hrs TTCを受けてー Megu 2016 🇨🇦

 友人であったMeguが、去年突然Waylon BeldingのTTCを受ける決意。

スピリチュアリティー・ゼロというより、『ヨガやスピリチュアルの世界を嫌悪していた』の彼女が、1ヶ月のTTCを通じてどう変わっていくか?!

メグの現実的な意見、体験を率直に語っています!

 

「Awarenessの種を蒔く」

 

ウェイロン先生と志保子先生との出逢いは2014年に遡る。初めて彼のクラスを受けたときの衝撃は今でも忘れられない。

10代の頃にジャズダンスに親しんだ私は、生まれ持った柔軟性もあって自然とヨガに親しむようになり、とても好きなアクティビティの一つだった。ただ、多くの人にとってヨガがそうであるように、それはあくまでも時々行うエクササイズやストレス発散の一環でしかなかった。

初めてのウェイロンのクラスでは、ピースフルな空気の中、確かなリードであっという間にmeditation状態に達することができた。終わった後の心と身体の、軽いけれど満たされている、なんともいえない充足感と安寧感は、それまでに味わったことのない感覚だった。
それが何だったのかわからないまま、あえて追求もせず、ただ楽しいという理由で彼のクラスに通った。

 

この頃のわたしは、ヨガのもつフィットネスの側面だけを楽しみたいと思っていた。でもヨガが単なるフィットネスではないことも知っていたので、スピリチュアルな側面に関しては頑なともいえるくらいほとんど拒絶していた。
なぜか。きっと怖かったのだと思う。
そこに自分が求めている答えがあること、それは簡単には手に入らないこと、そこに到達するまでのプロセスはとても孤独で、一人で歩まなければ行けないということ、そんなことをなんとなく感じていたのだと思う。

 

2016年にバンクーバーを離れることになり、これが最後のチャンスになるかもしれないと思い、思い切って夏のTTCに申し込んだ。ちなみに動機は、ウェイロンがいなくても一人でヨガを練習できるようになりたかったから。ヨガの先生になりたいと思ったことはなかった。

 

世界中で最も美しく最も快適な夏を過ごせる場所のひとつであるバンクーバーだが、さすがに毎日毎日6時間または9時間の野外での練習は想像を軽く超えていて、特に最初の一週間は全身の痛みと疲労に、コースをとったことを心の底から後悔した。
座学ではヨガの知識がまったくない私は内容の消化が追いつかず、それでもウェイロンの話す一言一言を全身に染み渡らせるように話に集中した。もう洗脳されてもいいとすら思っていた(笑)。毎朝の「一日くらい休んでも大丈夫だよ!」という悪魔のささやきを何とか聞き流し、自分とは違う何者かになってこの身体を公園へ運んでいた。

 

心身の変化は少しずつ現れた。
身体はコースを通して毎日ずっと痛かったが、余分なものがそぎ落とされ、生きてきた中で一番powerfulに感じたし、とても強くて成熟した、中身の詰まった身体になった感覚。
心は、煤で汚れたガラスが毎日少しずつ磨かれていって少しずつ向こう側が見えてくる、そんな感じだった。そして同時にとても敏感になり、時々戸惑うこともあった。

 

コースを終える頃には、ヨガとは何かというのが何となくわかったようなわからないような、そんな気持ちになっていた。
TTCを終えてその程度?とがっかりされるかもしれないが、正直にいうと「その程度」だった。

 

その後すぐにわたしはパートナーと旅をスタートさせ、なかなか思うように練習できない日々が続いた。仲良く暮らしていたはずの彼と毎日ささいなことでぶつかるようになり、激しい喧嘩も何度もあった。途中、もうこれ以上続けられない、と永遠の別れと覚悟して離れ離れにもなった。
家がなく、日本に帰ってからの住む場所や仕事がないという不安の中、あっという間に情緒不安定に陥った。自分の魂がどこかから抜け出てしまって、それを見つけられない感じがしていた。とても苦しかった。
TTCのときの、あんなにエネルギーに満ちて愛にあふれていた私はどこへ行っちゃったんだろう?

 

TTCの一番最初に習うこと。ヨガとは何?
ヨガとは、「繋がること」「結びつけること」。「へぇ~~~。。。。」 全然わからなかった。TTCが終わっても、やっぱりまだわからなかった。

 

でも、コースを終えて旅に出たあとも、ヨガの練習はできていなくても修行は続けていたようだ。魂が抜け落ちて足元がグラグラな中にも、いろんなところに気付きや学びがあった。
気付いたこと。わたしのそれまでの生き方って、現実の自分自身を全くって言っていいくらい無視して「理想のわたし像」を作り上げて、時にそうなれていると錯覚して満足した気になったり、時にそうではない自分に失望して「自分は欠けている」「自分は十分じゃない」「こんな自分はダメだ」とドMに走ったり、
つまり、「自分と繋がる」ことを全然してこないで、妄想で作り上げた世界の中に正解を求めて這いずり回るような生き方だったのだ!ガーン!!

 

「私はすでに全てを手にしている」
「正解はあなた自身が持っている」
「私は、私がもつこの魂を輝かせるために生まれてきた」

こういうことって、こうして文章にしてみるとうさんくさい。気持ちわるい。ぞわぞわする。
わかる。自分もそうだったので良くわかる。でも、やはり結局のところこれが真理なのだと、私は今は確かな実感を持って信じることができる。なぜそう思うのかは言葉では説明できないし、説明したところで、そのことをしらない人が理解できることではないだろう。

 

あのときTTCを受けていなかったら、まだまだ何も気付けずに、全然方向性の違う努力をして余計に自分を苦しめたかもしれない。

毎日まいにち身体も心もきつくて必死な中、洗脳されるようにウェイロンの言葉を染み渡らせ、浄化と覚醒の繰り返しの中で遠くにあるかないかの火を見つけた。その消えそうで消えない微かな火は、コースが終わってからも灯り続け、少しずつ少しずつ私の元に近づいてきて、いま目の前で力強く燃えている。

 

ウェイロンがTTC中に言った言葉。
「今までの人生で溜め込んだ心のゴミは捨ててしまいなさい。捨てて空っぽになったところには、二度とゴミが入らないように、
種を蒔きなさい。蒔くだけではだめ、日々丁寧に世話をし、対話をし、大事に育てなさい。
そうすればいつか、かつてゴミで埋め尽くされていた場所には美しい庭ができるでしょう。」

私はこれから、どこかに飛んで行ってしまった自分の魂を捕まえにいく。やっとスタートラインに立ったという気持ち。ここからが本当の修行。
心のゴミの断捨離も、少しはできたけどまだまだあるので、一つずつ手放して、そこに種を蒔くのが楽しみだ。

 

TTCの目的は人それぞれだし期待することもみな違っているはずだけれど、私のようにヨガの本質がわからないという人にとっては、このコースは何かを「マスター」したり「修了」する種類のものではない。このコースを終えると自分がいま居る場所ではないどこかへ行ける、自分ではない誰かになれる気がする、そう思って受けるとがっかりするかもしれない。

 

このコースで主に練習するのはZuddha Bija SequenceというZuddhaヨガのエッセンスが詰まったシークエンス。「Bija」とはサンスクリット語で「種」。
ウェイロンが私の中に蒔いてくれた「気付きの種」は今やっと芽を出しかけていて、私自身も新たな種を蒔き始めている。一度蒔いた種は、大切に育てるとその後の人生で気付きと学びを与え続けることができる。

 

心のゴミを溜め込みすぎて疲れてしまった人、正しい自分を探して忙しい人、ため息と一緒に魂まで吐き出してしまった人、怖がりで頭でっかちになってしまった人。
より多くのそんな人たちが、このコースを受けてその心に種をまき、いつか世界に美しい「庭」ができることを心から願う。

 

megu

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